今回ご紹介するのは、広島市の東区と安芸区の境界にある呉娑々宇山。
その標高は681.8mと市街地に近い山としては標高が高いため、多くの登山者が訪れている山です。
今ではあまり見かけなくなりましたが、昔は、大型ザックを背負って訓練している登山者をよく見かけました。
市街地に近く、登山口の一つである府中町のみくまり峡森林公園には駐車場もあることから、気軽に登れることが一因と思われます。
この駐車場からだと標高差約600m、山頂までの距離が約4kmもあるので歩きごたえのある山です。
そういえば、夏山前の時期になると大型ザックを背負って訓練登山をしている人をよく見かけましたが、最近ではあまり目にすることはなくなりました。
私は、近所の極楽寺山でやっていますが、他の人たちはどこでしているのでしょうか。
そもそも最近では、日本アルプスなどへテントを担いで行く人が減ってきているのかもしれません。
登山道は歩きやすく迷う場所もない初心者向けの山
さて、呉娑々宇山ですが、その山頂近くには大きな電波塔が建てられており、すぐ側には林道も走っていて、ちょっと味気のない山となっています。
さらに府中町のみくまり峡森林公園から登ると林道を4回も横断することになり、これもまたなんとも味気のない登山になります。
しかし、古くから親しまれてきた呉娑々宇山は今でも人気の高い山であることは間違いありません。
その登山道は歩きやすく、道標も整備されて迷う箇所もないため安心して登ることができます。
そんなに山深さを感じるわけでもなく、ある程度街を感じる山であれば安心感が生まれるので、現代社会においてはこのような山に人気が集まるのかもしれません。
そういえば、中国山地の奥深い山ではあまり登山者を見かけなくなった気がします。居ても数名程度です。
しかし、街に近い山は多くの登山者と出会います。
これも安心感が生まれるがゆえのことなのかもしれません。
府中町側の林道最上部。南尾根から高尾山へ分かれる分岐の西側山腹に、寺屋敷跡とも薬王寺跡ともいわれている石垣遺構があります。
木立の中には直線に並べられた石垣遺構と枯葉に埋もれた平地があり、806年に開基した薬王寺と数棟の寺屋敷があったといわれています。
麓にある府中町の道隆寺に伝わる古絵図には、山の中腹部に山門と壁をめぐらせて数棟の堂宇が建つ寺屋敷が描かれており、この石垣遺構は寺屋敷跡とも、また道隆寺の前身で大同元年(806年)弘法大師開基の府白山無量寿院薬王寺跡ともいわれています。
ここからは土器片などが出土していますが、この出土品などからここにどんな建物が建っていたのか、今確認できる資料はほとんどないとのことです。
そんな呉娑々宇山ですが、山頂には大きな電波塔があることから、遠くからでもその位置が分かります。
ただし、市街地から見えることはほとんどなく、見えるのは手前にある稜線や岩屋観音跡付近の岩峰です。ある程度標高の高い場所に立たないと山頂を確認することはできません。
また、山頂からの眺望はまったくないため、道中にある展望箇所(バクチ岩など)からの眺望に期待するしかありません。
登山ルート
一般的な登山ルートは、高尾山を経由してくるルート、みくまり峡森林公園内から林道を4回横切って登るルート、藤ヶ丸方面からの縦走ルート、馬木の大谷口からのルート、甲越峠から尾根線を登るルート、水谷峡から登るルートと多くのルートがあります。
その中でも最も多くの人が利用しているルートは、府中町のみくまり峡森林公園を起終点とした高尾山経由で登るルートや林道を4回横切るルートだと思われます。
それは、森林公園に駐車場があり高尾山とセットで登れるからです。
高尾山山頂直下には、広島市近郊では一二を争う絶景が望める岩峰があります。また、森林公園を少し下った場所にスーパー銭湯があることから汗を流して帰宅できます。
こうしたことから、みくまり峡森林公園を利用した登山ルートが多くの人に利用されている一因かと思われます。
ちなみに、安芸区側にも水谷峡と呼ばれる峡谷があります。蛇行が多く、比較的緩やかな峡谷のみくまり峡と比べると、直線的で深く狭い峡谷です。
この水谷峡にも駐車場があるので利用しやすいです。みくまり峡は開発が進み自然に近い状態ではありませんが、この水谷峡はほとんど自然の状態が保たれています。
また、多くの滝を目にしながら登るので飽きることはないルートかもしれません。
この水谷峡から登ると、大きな岩に大日如来が掘られているのを見ることができます。高尾山近くにも岩に観音様が掘られているので、なかなか趣のある山域となっています。
伝説のある山
呉娑々宇山の西側、東区側に宇根山溜池と国土地理院の地図に記されているため池があります。地元ではこの池を「ささらが池」と呼んでいます。あの平家の姫である「ささらが姫」が源氏の兵に詰め寄られ、この池に入水し果てた池であるとの一説によるものです。
ささらが姫とは、平清盛の跡を継いだ宗盛を補佐し、政権の中枢にいた清盛の四男知盛の姪にあたる人物で、源氏の追っ手が迫るなか、池のほとりに隠れ住んでいたものの平氏を滅ぼした源氏の凱旋部隊に見つかり、生きて平家の恥を受けるよりもと、池に入水し果てた姫です。
里人が厚く葬りその霊を慰めたことから、それ以来この池を「ささらが池」と呼ぶようになったという伝説です。
ちなみにこの伝説は、東区民にも府中町民にも言い伝えられています。
こうした古くから伝わる伝説やいわれは、何もないところから生まれるものではありません。
そう考えると、やはり何かしらの出来事がこの池にあったのではないかと思われます。
こうした伝説に思いを馳せながら山に登るのも、一つの山登りの形です。
※注意事項
登山ルート等の内容については、誤解や虚偽のないものであるよう努めていますが、経年変化や、災害による一時的な変化によって、記載された状況が変わっていたり、解釈に見解の相違が生じることがあります。山行の際には、ご自身でも最新の情報を収集してください。