車窓からの風景に酔いしれるはずだった美女平から室堂平までの立山高原バスは、ガスで覆われた景色の中を走っていた。
視線を向ける先もなく、仕方なしに目を閉じてじっとするしかない。
くねくね道は何度も車体を大きく揺らし、室堂平に着くころには逆に車酔いしそうになった。
身体は新鮮な空気を欲しがり、室堂平に降りるとすぐに深呼吸。
その空気は冷たく、身体を一瞬で目覚めさせた。こんなに真夏の暑い時期なのに、標高2000mを超えた場所はやはり涼しい。夏山は日本アルプスに限るといつも思う。
しかし、梅雨明け1週間はいい天気が続くのに、今年はどうやらそうもいかないみたいだ。いや、今年に限った話ではない。近年はいつもそんな天気だ。いったい、いつ夏山に行けばいいのか分からなくなってしまった。
立山室堂平に着いたのは15時過ぎであったが、多くの観光客が訪れていた。山に登らなくても山岳風景が見られる立山室堂平は観光に人気の場所だ。登山初心者でも少し頑張れば雄山の頂に立てるので、それもまた人気となっている一因だろう。
朝早くに広島駅から新幹線に乗ってきたが、ここまで来るのに何回乗り継いだことか。しかし、車で来るよりはずいぶんと楽チンだ。今回の山旅は、ここ立山室堂から一ノ越へと進み、五色ヶ原、越中沢岳、薬師岳の山頂を踏み、太郎兵衛平から折立へ下りる4泊5日の旅だ。今宵は今回の旅で唯一の小屋泊、一ノ越山荘に泊まる。
室堂ターミナル前の玉殿の湧水をプラティパスに入れ、一ノ越へ向けて歩き出す。ガスは晴れたものの雄山、大汝山、富士ノ折立の立山は分厚い雲に覆われたままだ。道は、大きな石を並べた石畳の道。少し歩きにくいので両サイドにあるU字溝の肩上を歩く。
途中、まだ雪渓が残っている箇所が数箇所あり、慎重に進む。明日は急坂の残雪箇所を歩くことになるので、念のため軽アイゼンを持参している。室堂から90分も歩けば一ノ越に着く。山荘にはそれほど登山者はいない。移動の疲れと翌日からの本格的な山歩きに備えて早めに就寝した。
五色ヶ原へ
翌朝、小屋から外に出てみると一面ガスに覆われていた。雨予報ではないものの、ガスっているとやはり気は沈む。今日は五色ヶ原まで歩き、そこでテント泊の予定だ。
ガスっているときは足元に目がいく。写真も花々を映したものが多くなっている。浄土山の南峰まで40分掛けて登り、龍王岳、鬼岳はピークを巻いていく。龍王岳付近から多くの高山植物の花々に迎えられ、ガスっている天気を恨む。
やはり鬼岳付近には雪渓が残っており、急坂であったため軽アイゼンを装着し慎重に歩いた。朝が早かったため、道はつるつるな状態であった。その後聞いた話だと、同じ日にここでスリップ滑落事故があったとのこと。ヘリが飛んでいたからもしかしたらと思っていたが、やはりケガ人の救出をしていたみたいだ。
一旦鞍部まで下り、獅子岳へ向けて登り返す。獅子岳付近を歩いていると、ガスが晴れ青空が見えてきた。振り返ると雄山が綺麗に見えた。
足元を見ると高山植物も豊富に咲いていて、疲れを和らいでくれる。いつまでもこの景色を残したいと思わせてくれる風景だ。
獅子岳からザレたつづら折りの長い下りを進むとザラ峠が見えてきた。ザラ峠は歴史ロマンのある峠だ。越中国と信濃国を結ぶ急しゅんな古道上に位置する峠で、あの戦国武将の佐々成政が厳冬期に北アルプスを越えた「さらさら超え」のルートではないかとされている。今でさえ過酷な厳冬期の北アルプス。あの時代になぜ厳冬期の北アルプスを越えなければならなかったのか。歴史の真実を紐解くと新たな一面を垣間見ることができる。
そこから立山カルデラの縁に沿うように40分ほど登ると木道が現れ、山荘とテント場の分岐に出る。
山荘とテント場は離れているため、先に山荘に行き受付を済ませる。15分も歩けば五色ヶ原山荘に到着だ。しかし、雄大な五色ヶ原の風景を楽しみにしていたが、ガスっていてはその楽しみも半減となってしまった。
山荘に登山者の姿はなく、ひっそりとしていた。受付を済ませ、しばらく山荘の前で佇んでいても、結局誰も来なかった。訪れる登山者も少ないのか、今どきの昼食などの販売も小屋ではしておらず、本当に静かな所だった。
もう一度サックを背負い、テント場へと向かう。10分ほど緩やかな坂を下ると広いテント場へ着いた。やはりテント場にも誰もいない。一番景色のいい場所を選びテントを設営した。それから少しずつ登山者が現れテントが設営されていく。ただ、なかなかガスが晴れるときがなく、どんよりとした空に覆われたテント場は、色とりどりに並ぶテントの華やかさを削いでしまっていた。
越中沢岳を踏む
翌朝、4時半にテントから顔を出すと綺麗な空が広がっていた。気分も高揚し、急いで身支度を整え5時過ぎには出発した。
今日は越中沢岳を超えてスゴ乗越小屋まで歩く予定だ。五色ヶ原山荘から標高2616mの鳶山まで緩やかな坂を登っていく。振り返ると昨日見られなかった五色ヶ原の広大な溶岩台地を見ることができた。
鳶山までは50分で着いた。目の前には越中沢岳や明日登る薬師岳に、赤牛岳、水晶岳、黒部五郎岳など一望である。それにしても槍ヶ岳や笠ヶ岳は特徴的でよくわかる。やはり笠ヶ岳の山容は美しい。
そこから、2356mの鞍部まで一旦下り、緩やかで広い尾根を登る。しかし、何ともいえないぐらい気持ちいい。振り返ると遠くに剱岳も見える。五色ヶ原の溶岩台地もよくわかる。天気がいいとこうも違うものなのだ。
60分ほど登ってきたが、あっという間に着いた感覚で越中沢岳に到着する。ここから急尾根を下るので一休みする。あまりの天気の良さに昼寝したくなる。これだから夏の日本アルプスは止められない。下界では暑い暑いと嘆いていることだろう。
しかし、これから目の前のスゴ乗越まで下るのかと思うと気が遠くなる。よく見ると赤い屋根のスゴ乗越小屋も見え、あそこまで登るのかと思うとさらに憂鬱な気分となった。
景色を見ながらボーっとしていると、後ろから登山者がやってきた。色々話をしていると突然「広島の人ですか?」と言われてしまった。何でも広島の人はしゃべり方ですぐわかるらしい。こちらとしては、標準語で喋っているつもりなのだが…。
さて、ここから転げ落ちるような急坂を下り、スゴの頭へ向けて登り返す。100分程度だが、これがまたしんどい。そして、スゴ乗越まで40分掛けて下り、樹林帯の中を40分登り、今日の目的地であるスゴ乗越小屋へと着いた。テント場から小屋まではすぐで、小屋はなかなかの趣を感じる小屋だった。一方、テント場は張る場所の選定に困らないくらい、こぢんまりとしたテント場だった。
薬師岳へ
翌日は微妙な天気予報となった。湿った空気の影響でガスりやすいとのことだ。今日は薬師岳を超えて太郎平小屋のテント場まで行く予定だ。5時過ぎにテント場を出発し、樹林帯を抜けると砂礫の歩きやすい道となった。
70分ほど登ると間山に着き、さらに100分登ると標高2900mの北薬師岳のピークに着く。左手は金作谷カールだ。カールとは氷河によって削られて出来たお椀上の谷のことで、不明瞭となった北カール、中央カール、南稜カールと薬師岳の東側斜面には4つのカールが並んでいる。その4つの圏谷群は薬師岳の圏谷群の名称で呼ばれ、国の特別天然記念物だ。地形図を見ると不明瞭なカールを除いて、3つ並んでいるカール群がよく分かる。一番南側にあるカールは東南尾根を歩かないと見えない。
そんな太古の氷河期のような特異な景観を楽しみにしていたのだが、ガスが上がっていたため見ることはできなかった。
ここまで約3時間の登りはさすがに堪えたので、少し休憩した。ガスは少しあるものの大展望の景色が広がっている。薬師岳の標高は2926mなので、もう少し登るだけだ。薬師岳の山頂に立てば、あとは下るだけなので、なんだか終わった気分となってしまった。夏山の旅が終わってしまうのかと思うと少し寂しい気持ちとなる。
そんな心境になったためか、薬師岳までの稜線歩きはゆっくりとした足取りとなってしまった。それなりに標高を下げて、薬師岳へ向けて登り返す。振り返ると金作谷カールが綺麗に見えた。
薬師岳山頂には多くの登山者がいた。さすが百名山で人気ある山だけのことはある。多くの人は折立から登ってきたのだろう。近くに住んでいると1泊2日で来られる。うらやましい限りだ。
薬師岳を超えると、ここからテント場のある薬師峠まで600mほど下る。広い尾根を下ると薬師岳山荘が見えてくる。
薬師岳山荘で薬師岳のバッジを買い、さらに歩きやすい道を80分ほど下るとテント場に着いた。テント場は多くのテントが張られていて、張る場所がなく困った。しばらく待っていると、次々に薬師岳から降りてきた人がテントを撤収して下山していき、あっという間に張る場所がたくさんできた。ここのテント場は小屋から離れているが、夏期だけ小屋の人がここまで来て受付してくれる。ビールなども販売しているので商売上手だ。テントを設営し、シュラフにもぐり込んで本を読んでいるといつの間にか眠ってしまっていた。あまりの騒々しさに目が覚め、外を覗いてみると多くのテントが張られていた。とても賑わいのあるテント場であった。
折立へ下山
翌日は最終日。このテント場から折立までは3時間もあれば着いてしまう。折立からのバスの時刻に合わせ、たっぷり寝た。起きてからテントを乾かす時間もあった。最終日にテントの乾燥撤収ができると家に帰ってからの後片付けが楽だ。しかし、早く家に帰りたいと思う気持ちより、まだ夏山を満喫したいとの思いが強い。次はいつ来られるのだろうかと思ってしまう。
太郎兵衛平に向けて、少し登り返しの道を歩き出す。ほどなくすると木道の道となる。目の前に赤い屋根の太郎平小屋が見え、歩くにつれ大きくなっていく。池塘やニッコウキスゲが風景の中に点在するなか、ゆっくりと歩き30分掛けて太郎平小屋に着いた。
小屋の前にはベンチやテーブルが置かれ、そこでのんびりしてしまった。コーヒーを飲んだり、余った食材を食べたりと。やはり下界へは降りたくないとの思いが強い。
重たい腰を上げ、折立へ向けて歩き出す。ゆるやか尾根を下るが、随所にベンチがあり心がそちらにいざなわれる。木道や石畳のよく整備された明るいトレイルは展望もいいため、何度も立ち止まっては景色に目を向ける。
三角点のある展望広場まで100分のコースタイムのところを130分も掛けて下った。ここからは展望のない樹林帯。最後の夏山の景色をベンチに座り目に焼け付けた。そこから折立までは、ほぼコースタイムとおり。折立からバスに乗り、亀谷温泉で汗を流し帰広した。来年はどこ歩こうか。そんな想いを抱きながら。
※注意事項
登山ルート等の内容については、2017年時点のものです。誤解や虚偽のないものであるよう努めていますが、経年変化や、災害による一時的な変化によって、記載された状況が変わっていたり、解釈に見解の相違が生じることがあります。山行の際には、ご自身でも最新の情報を収集してください。