茅野駅に降り立つと真っ青な空が広がっていた。この先も天気が崩れる心配はない予報だ。
広島駅から新幹線に乗り、名古屋で特急に乗り換え、さらに塩尻駅から普通列車に乗り換えてやっとたどり着いた。約5時間の長旅であったが、車で来ることを思えば約半分の時間だ。
今回の山旅は、北八ヶ岳と南八ヶ岳だ。麦草峠から天狗岳、硫黄岳を経由して主峰赤岳へと登り、阿弥陀岳のピークも踏んで行者小屋へと下りる3泊4日の旅だ。
しかし、涼しい。やはり長野は広島と比べるとかなり涼しいと感じる。もう9月も半ばを過ぎたのに、最近の残暑は厳しい。
駅前にいたタクシーに乗り込み麦草峠へと向かう。今日は麦草峠から白駒池を見て、高見石小屋でテント泊の予定だ。麦草峠でタクシーを降り、白駒池入口から登山道へと入った。
白駒池のほとりにある青苔荘でコーヒーを飲んでいる人がいたが、白駒池周辺はひっそりと静まりかえっていた。流石に9月も半ばを過ぎた平日は人がいない。
しかし、これから赤岳へ向かって南下するにつれ人は増えてくるだろう。しかも行者小屋でテントを張る日は3連休の初日だ。果たして設営する場所があるかどうか。
白駒池から「苔の森」といわれるだけあって、苔が広がる何ともいえない雰囲気が漂う樹林帯の中を歩く。やっぱり八ヶ岳の苔は美しい。広島にこんな場所はない。
しばらく登ると赤い屋根が目立つ高見石小屋に着いた。早速、受付けを済ませテントを設営する。誰もいないテント場は設営場所に悩む。
テントを張り終え、コーヒーを飲んでいると一人の女性が南から来て、テントを設営し始めた。
話しかけると八ヶ岳の南、編笠山から蓼科山まで歩く4泊5日のひとり旅をしていると言っていた。今どきの山ガールの格好ではなかったが、なんだかカッコよく見えた。
きっと、山登りの真の魅力を知っている人なのだと思った。山登りの真の魅力を知っている人は、男性であれ女性であれ、テントを背負って一人で歩いている。そう思っている。
時間があったので、小屋のすぐ裏にある高見石の岩場を登ってみた。眼下には白駒池が見え、空が広かった。時々、風が吹く音が聞こえるぐらいで辺りは静けさに包まれていた。静かに景色を見つめているといろんなことを考えてしまう。でも、それは過去の自分ではなく未来の自分だ。自然は、未来の自分を見いださせてくれる不思議な力を持っている。
陽が沈むのを見てからテントへ帰った。どうやら今日は小屋に泊まる人もおらず、テント泊の2人だけみたいだ。
硫黄岳へ
翌朝、テントから顔を出すと綺麗な星空が広がっていたので、また高見石まで行き御来光を見た。丸山が赤く染まっていた。今日もいい天気になりそうだ。
濡れたテントをビニール袋に入れ、ザックに詰め込む。今日は天狗岳、硫黄岳を踏んで硫黄岳山荘へ泊る予定だ。八ヶ岳の稜線にある山小屋にはテント場がない。仕方がないので今宵は小屋泊だが、布団で寝られると思うと気持ちは明るくなる。
緩やかな樹林帯の中を歩き始めるが、しだいに傾斜が増してくる。
1時間も登ると空が開けた。中山展望台だ。遠くに北アルプスの山々が見える。しばらく景色に見入ってしまう。
そこから30分ほど歩くと中山峠に着いた。ここから尾根伝いに歩くルートもあるが、一旦黒百合平へと下り、そこから天狗ノ奥庭と呼ばれる道を歩いた。こちらのほうが展望に優れると聞いていたからだ。時間もそんなに変わらない。
ちょっと急登を登るが、登りきるとすり鉢池と天狗岳が正面に見えた。天狗岳は2つのピークを持つ双耳峰だ。
1時間40分ほど登り、東天狗に着いた。ただ、三角点があるのは西天狗。往復するも40分掛かり、ちょっと疲れたので東天狗で一休みした。ここからの景色も見事で、歩いてきた道のりがよくわかる。それにしても北八ヶ岳は、森に包まれたおだやかな山並みが広がっている。
補給食を口に入れ、硫黄岳へ向けて歩き出す。一旦鞍部まで下り、登り返すと根石岳だ。振り返ると西天狗と東天狗の山容が美しい。
さらにまた鞍部まで下ると右手に根石岳山荘が見え、登り返しが始まったかと思うとすぐに下り始め、夏沢峠に60分で着いた。左に下ると日本最高所の露天風呂がある本沢温泉である。テレビでよく紹介されていて、いつかは行ってみたいと思うが広島からだと行く機会が限られるのが現実だ。
ここから硫黄岳まで厳しい登りが待っているので、また一休みした。休んでばかりだが今日はずいぶんと時間に余裕がある。日本アルプスに比べると規模がひとまわり小さい八ヶ岳は山小屋もたくさんあり、時間に余裕のある計画ができる。やはり余裕がある山行は歩いていて楽しい。
急登をしばらく登ると左手に爆裂火口が見えてくる。なかなかの迫力だ。そして、振り返った景色も素晴らしい。
本当はダメな登り方なのだろうが、ゼイゼイ言いながら硫黄岳へ着いた。60分もの登りはさすがにしんどかった。さらに目の前には明日登る険しい南八ヶ岳の山々が見え、ゲッソリとなってしまった。
しかし、北八ヶ岳に比べてこうも違うものかと改めて感じた。南八ヶ岳は噂通り荒々しい。
時間もあるので爆裂火口を覗きにいった。断崖絶壁とはこのことだと思った。
さて、そこから鞍部まで下ると本日のお宿、硫黄岳山荘がある。今日は早々と山小屋に着いてしまった。しかし、この山小屋は快適すぎる。北アルプスの山小屋に比べても快適すぎる。ウォシュレット完備の水洗トイレに温水シャワーまである。なんという贅沢…。さすが、八ヶ岳。東京から多くの登山者が訪れるだけのことはある。潤っている山域は、こうも違うものだと改めて実感させられた。
シャワー浴びてひと眠りしたあと、しばらく布団にもぐって本を読んだ。なぜか山旅に出掛けるときは本を一冊持ってくる。本一冊分の重量を減らすため、それなりに頑張ってもこれでは意味がない。
夕刻、自炊するため外の空気を吸いに出た。少しガスが上がってきたようだ。
稜線にはさすがに登山者はおらず、ひっそりと静まりかえっていた。
陽が沈み始めても辺りには誰も出てこず、美しい景色をひとり占めしている。
小屋泊の人たちは食事時間なのだろう。こんな貴重な景色が観られないのは少々もったいない気がするが、なぜか淋しさがこみ上げてくる。そんな時は大切な人の顔が脳裏に浮かんでくる。ひとりで山旅をしていると大切なものの存在に気づく。早く家に帰りたいなと思いながら布団にもぐり込んだ。
赤岳と阿弥陀岳へ
翌朝、今日も朝日を拝むことができた。稜線の山小屋に泊まると、この景色が観れる。さすがに数名の登山者がいた。
今日は横岳を経由して八ヶ岳主峰の赤岳に登る。そして、阿弥陀岳を踏んで行者小屋へと下り、そこでテント泊の予定だ。テントの設営場所がなければ美濃戸まで下りようと思っていた。
テントの撤収もないので準備も早い。朝食中の登山者を横目に見ながら早々と出発した。
朝の凛とした空気を浴びながら横岳を目指して登る。八ヶ岳は麓の街がよく見える。奥深い山ではなく、街に近い山なのだと感じる。
振り返ると爆裂火口の荒々しさをまったく感じない硫黄岳と出発した山荘が見えた。硫黄岳はなんてやさしい山容なのだと思った。
小さなピークに立つと、目の前には荒々しい小さな山々と赤岳が見え、その向こうに富士山が見えた。
なんだろう、心が震えた。なんとも言えない美しさを富士山は持っている。やはり富士山は登る山ではなく見る山なのだと思ってしまう。
横岳が近くなると登山道も荒々しくなり、鎖場も現れ始める。1時間ほどで横岳を踏み、そこから小さなピークをいくつも超えていくのだが、なかなかスリルがある場所も通過していく。
最後のピークを越えると目の前に赤岳と富士山が現れた。景色の美しさとは裏腹に、一旦あの鞍部まで下るのかと思うと少々憂鬱になる。とりあえず見える赤岳展望荘まで頑張ろうと心に誓い歩き出した。
赤岳展望荘まではさらに1時間を要した。山荘前から見上げると目の前にはこれから登る急斜面があまりにも苛酷に思えたので、一旦山荘前で一休みした。
補給食を口に入れ出発したものの、なかなかの急登に息が上がる。高度を上げるにつれ、赤岳展望荘が小さくなっていく。岩礫の急斜面は緊張度が高まり、気を抜くことが許されない。
しかし、それも束の間、30分も登ると目の前に山頂が見えてきた。さらに赤岳頂上山荘のそばを通り過ぎると山頂にはすぐに着いた。
山頂ではかなり長い時間居すわり、景色を堪能した。今日は連休の初日ということもあってか多くの登山者が行きかう。山頂は人間交差点。多くの歴史を背負った人たちが交わる場所だ。一人ひとりの背中には人生という歴史が見え隠れしている。背負っているものは荷物だけを詰め込んだザックではない。色んな思いを詰め込んだザックだ。
さて、私も最後のピーク、阿弥陀岳へ向けて歩き出す。
危険満載の岩場を下り、転げ落ちそうなジグザグの斜面を鞍部まで下る。中岳へ登り返して再度下ったところが中岳のコルだ。山頂から60分で着いた。ここからまた急登を登るが、ここまで帰ってくるため必要な荷物だけ持って登った。25分で阿弥陀岳山頂だ。
山頂からは荒々しい赤岳と富士山が顔を出していた。それにしても、キレット小屋から赤岳への登りもなかなかハードそうだ。
最後のピークからの景色を十分に堪能してから後ろ髪を引かれる思いで山を下りた。中岳のコルまで下りて荷物を回収し、中岳道を通って行者小屋へと降り立った。60分掛かった。案の定テント場は一杯で、張るスペースがなかったのでそのまま美濃戸まで100分歩いた。ここまで車で来られるみたいで多くの車が止まっていた。
やまのこ村山荘前にテントを張り、ソフトクリームを食べ、生ビールを飲んだ。翌朝はゆっくりテントを乾かしてから出発した。美濃戸口までは舗装されていない車道歩きだ。しかし、こんな下界でも八ヶ岳の森は美しかった。50分で八ヶ岳山荘に着き、ひと風呂浴びてから茅野駅行きのバスに乗り帰広した。
バスの車窓から広がる景色を見ているといいところだなと思った。こんな場所で暮らしていきたいなとも思った。また来よう。そう心に誓い八ヶ岳を後にした。
※注意事項
登山ルート等の内容については、2013年時点のものです。誤解や虚偽のないものであるよう努めていますが、経年変化や、災害による一時的な変化によって、記載された状況が変わっていたり、解釈に見解の相違が生じることがあります。山行の際には、ご自身でも最新の情報を収集してください。